紙芝居『化石の山』 映像Master 8分17秒

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『化石の山』:この事を忘れない為の紙芝居
1) ぼくの名前はシャオロン、
中国は黄河(こうが)の北にある小さな村で生まれました。

ぼくが四つ頃、海の向こうの日本と言う、島国から沢山の兵隊が攻め入りました。
1931年9月…日本軍は山を越えた東北の地、満州から中国人を追い払い、
空っぽになった村々には、日本からやって来た沢山の農民が住むようになったのです。

2) でもぼくの村は戦場からは未だ遠く、暫くはのどかな暮らしが続いていたのです。

ぼくの村に日本軍がやって来たのは、ぼくが15歳の時です。
三年前に病気で父さんを亡くしたぼくは、
身体の弱い母さんと畑でコーリャンを作ったり、
地主の馬の世話をして暮らしていました。

3) 明け方のこと、
突然悲鳴が上がって、荒々しい足音とガンガラ叩く金ダライの音…

赤ん坊が泣き出し、「火事だぁ」と叫ぶ声もします。
『母さん起きて、早く』!
ぼくは手桶を握って、戸口から飛び出しました。
4) そのとたん、火のような痛みが頭と背中に。
・・・
地面に転がったぼくが見上げると、中国人の服を着た男達が、
こん棒や銃剣をかざして立っていました。

5) 男達が村の人でないことは、すぐに分かりました。
中国人に変装した日本の兵隊で、ぼくは縄をかけられました。
『シャオロン、シャオロン』!!
母さんは戸口にすがって、ぼくの名前を呼び続けていました。

6) 日本軍は大勢で村を取り囲み、火事だと信じて飛び出して来た村の人達は、
次々に捕えられて、村の広場に集められました。

日本兵は、丈夫で働けそうな村の男を
一人残らずさらってゆくのです。

7) トラックに追い立てられるぼくを見て、母さんの妹のミンお姉ちゃんが、
『その子は未だ15よ、足腰の弱い母さんと二人きり、お願いだから連れて行かないで』!

でも日本兵は声を荒げてお姉ちゃんのお腹を蹴りました。
ぼくはそのままトラックに乗せられてしまったのです。

8) 何時間もギュウギュウつめの貨車に揺られました。
港につくと輸送船の船底に押し込められて日本へ向かいました。
こうしてぼく達中国人は、男達の多くが戦場に駆り出され、
人手が足りなくなった日本で、家畜のような扱いをうけながら、
きつい仕事や危ない仕事をさせられることになりました。

9) それは山奥の炭坑や工事現場でした。

銃剣や鞭で脅されながら、痩せてガリガリになって、
二度と起き上がれなくなるまで働かされるのです。

10) その頃日本はアジアだけでなく、南大平洋の国々にも軍隊を送り、
ヨーロッパやアメリカとも戦争をしていて…

負け戦の末に、とうとう日本の空にもアメリカの爆撃機が来て、
爆弾を落とすようになりました。
日本は急いで空の敵から発見されない場所に、
武器工場を作らなくてはならなかったのです。

11) 岐阜県瑞浪市の化石山は、大昔は海でしたから。
貝や珊瑚や鮫など数知れない化石が眠っています。
柔らかい地層は爆薬を使わなくても、ツルハシを振るえば容易く掘れます。

秘密の地下工場には、もって来いの山でした。

1944年11月川崎航空機の岐阜工場を移す工事が始まりました。

12) そして翌年、ぼくが日本に来て3年目の1945年4月。

木曾の山中で働いていたぼく達330人の中国人も、化石山に集められました。

一日に12時間あまり、ぼく達は化石の山のトンネルを掘り続けました。
日が暮れると一列に並ばされ、谷間の底のバラック小屋に連れて行かれます。

立てば天井に頭がつかえるほどの、細長い小屋の床には、
ムシロが敷かれているだけです。
13) 米ぬかと小麦を混ぜて蒸し上げたパン一個と塩水が椀に一杯、
これがぼく達の食事でした。

バラバラと雨が屋根を叩く夜は、空っぽのお腹がキリキリ痛んで眠れません。
ぼくは故郷を思いました。
母さんや、ミンお姉ちゃんはどうしているだろうと。

お婿さんになるはずだった鍛冶屋のタンさんは、
ぼくと一緒にトラックに乗せられてしまったのですから。
14) ジトジトと雨が降り続く頃、ぼくは度々高い熱を出しました。

身体がガタガタと震えて、舌を噛んでしまいそうで。
でも仕事は休めず、薬も飲ませてはもらえない。
その日モッコを担いだぼくは、腕にも足にも力が入らず、フラフラでした。

突然頭が砕けてしまいそうな痛みに、気を失ってしまいました。

15) 眼を覚ましたのは、あくる日の昼頃でした。

でも辺りは夕暮れのように暗いのです。

ぼくの眼は急に弱って、うっすらとしか見えなくなっていました。

ぼくはその時、もう中国に帰ることも、
母さんに会うことも出来ないのだと分かりました。

16) やはり高い熱が出て、眼がみえなくなってしまったリーという子が、
五日目の朝には冷たくなっていたからです。
葬いの日、ぼくも薪を背負って化石山のてっぺんに登りました。

空の彼方へとくゆる煙に、リーが懐かしい家族の元へ帰れますように…
ぼくはそう祈らずにはいられませんでした。

17) ぼくは、もっともっと生きていたかった。

戦争が終わって平和になった故郷の、祭りの競馬で一等になり、
優しい花嫁さんを貰って、母さんを喜ばせたかった。
…だけど、ぼくは今38名の仲間と一緒に、

この「化石山」に眠っています。

18) ぼくは願っています。

もう二度とぼく達のような思いをする人がいませんようにと。

力に任せて、むやみに殺したり傷つけたり…
家族を奪ったり、暮らしを壊したり…

どんな理由があってもしないでほしい。

19) 戦争は殺し合いです。
殺し合いで平和は生まれません。

だから、ぼくの国だけでなく、
アジアの国々みんなと手を携えて、ともに生きる道を選んで下さい。
そして今から70年あまり昔…
この化石山に、ぼく達330人の中国人がいたことを忘れないでください。

いつまでも。

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岐阜県瑞浪市の化石山の頂上には52年前に『日中不再戦の誓い』の碑が建てられました。

毎年慰霊祭が行われていて、
今年も満州事変(柳条湖事件)が起きた9月18日に慰霊祭が行われました。
私はこの地で子育て時代を過ごし、我が子が小学生当時地域の子供会長を務めていた夏に、子ども達に化石資料館と中国人の強制労働で掘られた地下壕の見学をしてもらいました。
その時供養会の方に伺ったお話を元に、物語にしました。
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20数年前はB5版の絵本だったので、
今回B3版の紙芝居にリニューアルしたものです。

2018年11月24日 摩弓


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